大阪杯 ホワイトストーン

B級名馬列伝#9~ホワイトストーン(産経大阪杯)

芦毛のアイドルホースというと、誰もがあのオグリキャップを思い出すことだろうが、
「芦毛の『裏アイドルホース』」とは呼ばれはしなかったが、
そんなふうに呼びたくなるような人気馬が、「王道路線」の産経大阪杯を1991年に優勝している。
おそらくここまで言えば、ある程度キャリアを積んだ競馬ファンであれば当然思い浮かぶ馬がいるだろう。
そう、ホワイトストーンである。

ホワイトストーンというと、3歳(旧4歳)時には本家・アイドルホースであるオグリキャップの引退レースとなった感動の有馬記念で1番人気に支持され、インコースからしぶとく伸びて3着した馬である。
そして、その2着が外から伸びた同期のメジロライアンだったから、同じく芦毛の名優・メジロマックイーンとも当然同期ということになる。

そういえば、メジロライアンが圧倒的人気を背負い、
「メジロはメジロでもマックイーンのほうだ!(by杉本アナ)」で決着した菊花賞でも、
しっかり2着に食い込んで、「俺だって芦毛のステイヤーだ!」という存在感を存分にアピールした。
当時は・・・

ホワイトストーンがどうしてこれほどの人気馬になったかというと、
これはあくまでも私個人の見解だが、
「どうしても一歩届かない者に対する憐憫、そして、そこに由来する日本人独特の判官ビイキ」
がその根拠になっていたのではないかと考える。
ライアンが誇ったマックイーン以上ともとれる人気も、やはり「どうしても勝てない」という、
まるで自分の投影図でもあるかのような親近感に由来する、
ある意味非常に不本意なものであったに違いない。

さて、菊花賞でメジロマックイーンが突如彗星のごとく現れ、そして脚光を浴びたのに対し、
ホワイトストーンはメジロライアン同様、皐月賞からすでにクラシックで活躍していた。
皐月賞8着、ダービー3着、そして菊花賞で2着。
その成長の過程を見ても、マックイーンさえいなければ、このホワイトストーンの描いた成長曲線は、
いかにも菊花賞馬のそれにふさわしいものであったと思う。

ライバルのマックイーンは、翌春までゆっくり保養したのに対し、
ストーンのほうは、菊に続くジャパンカップでも日本馬最先着の4着に好走する。
さらに、同じ芦毛のオグリキャップのラストラン・有馬記念では、
オグリが感動のフィナーレを飾る姿を、こちらは悔し涙をかみしめながら見た3着のゴールであった。
つまり、マックイーンやオグリといったスーパーホースの犠牲となったのが、
このホワイトストーンであり、メジロライアンであったのだ。

「マックイーンさえいなければ・・・」ホワイトストーンは、同期の強すぎるヒーローに対し、
いつでもそんな歯がゆい思いを背負い、悩みにもだえながら競走生活を送った。
だから、同じ芦毛でもマックイーンよりもずっと早く「白い芦毛」になったのだった・・・
というのはまったくの事実無根だが、ストーンのファンからすれば、
むしろ自身の白髪が増えてしまうのではないかと心配になるほど、
そんな悩ましい成績が続くのだった。

その転機となったのが、年明け緒戦の産経大阪杯であった。
菊花賞トライアルのセントライト記念ですでに重賞勝ちを収めていたものの、
マックイーン登場以降は、どうしても勝ちに恵まれなかったホワイトストーンであったが、
このときは、先行策から直線半ばで前をとらえ、堂々の先頭ゴールインであった。
いつになく行きっぷりがよく、世代のレベルの高さを示す圧勝を飾ったホワイトストーンだが、
このレースを皮切りに、ステイヤーとしては致命的な「かかりグセ」がついてしまったような印象がある。
実際、それ以降は1年半以上勝ち星から遠ざかってしまうホワイトストーンであった。

「マックイーンを負かす!負かすんだ!!」という気合が空回りしていたのかどうかはわからないが、
とにかくストーンの長いトンネルが続く。
「もうホワイトストーンは終わった・・・」そんな声がささやかれ始めていた。
しかし、「もう一度マックイーンに挑戦させてくれ!」と思ったのか、
7歳時のAJCCでは、かかりながらも終始先頭を譲らず、そのまま逃げ切りで押し切って、
実に久しぶりの美酒を味わうのであった。
7歳になっても力強いホワイトストーンであった。
そして、オグリほど派手ではなかったが、しっかりと復活してみせたホワイトストーンであった。

「待ってろマックイーン!もう一度俺と勝負しろ!」
ホワイトストーンの背中はそう叫んでいるように見えた。
しかし陣営は、その後ホワイトストーンをメジロマックイーンと戦わせることはしなかった。
菊花賞2着という面影は、このときのひっかかるホワイトストーンにはすでに残されていなかった。
長距離の天皇賞という選択肢は、陣営にはなかった。

結局ホワイトストーンは、このAJCCが競走生活最後の勝利になった。
引退して種牡馬になったが、1998年、病気のため「帰らぬ馬」となった。

いつも大阪杯が行われると、強かったホワイトストーンを思い出し、
AJCCが行われると、負けん気いっぱいのホワイトストーンを思い出す。

ホワイトストーン(牡)・・・父・シービークロス、母・ワイングラス、その父・ナイスダンサー
主な勝ち鞍・成績・・・セントライト記念、産経大阪杯、AJCC(すべてGII)